ショパン (Chopin) 『別れの曲 (Etude No 3, Op 10)』のあの難解な中盤に関する考察

Chopin Etude No 3, Op 10

フジ子・ヘミング ~ ショパン 「別れの曲」

フジ子・ヘミング

ずいぶん前に音楽好きな友人とショパン (Chopin) の話をしているときに、『別れの曲 (Etude No 3, Op 10)』のあの中盤の難解な部分に関して、友人は「あんな部分いらない」と冗談交じりに言った。当時の私は彼の意見に全く賛成だった。『別れの曲 (Etude No 3, Op 10)』をポップスとして捉えた場合、あの難解な部分は全く不要である。しかしそれからいくつもの時が通り過ぎた今、全く逆の見解が生まれてきた。「いや、あの難解な部分は必要不可欠である」と。そして、あの難解な部分をピアノで繰り返し弾いてみたときに改めて理解できてきた。やはり必要不可欠である。あの部分がなければ、芸術作品としての『別れの曲 (Etude No 3, Op 10)』は成立せず、単なるポップスで終わってしまう。

私はリチャード・クレイダーマン (Richard Clayderman) の『別れの曲』を聴いて、この曲を初めて知り、その後、父が持っていた古いレコードによってショパン (Chopin) による原曲を知った。そのときにあの難解な部分を聴いたとき、私はそれをピアノで弾きたいとも思わなかったし、素晴らしい、とも思わなかった。というより、全く理解できなかったし、あんな部分は、ない方が聴きやすいし、弾きやすいのに、と思った。だから私はリチャード・クレイダーマン (Richard Clayderman) のために編曲された『別れの曲』が大好きだった。そして、今も決して嫌いなわけではない。

リチャード・クレイダーマン (Richard Clayderman)

全ての芸術に関して理解できる、できないの基準は、私は個々の感性に委ねられるものだと思っている。つまり0.001秒の間に直感的に感じる部分の話である。芸術と向き合うときに理屈は一切必要ないと思っている。人が誰かを愛するときのように。。

『別れの曲 (Etude No 3, Op 10)』のあの難解な部分をよく観察してみると、減音音階と半音階による進行を駆使して構成されていることがわかる。そしてそれはジャズ的に解釈してみると、まさにインプロヴァイズされた部分、つまりアドリブ的要素に満ちた部分とも言える。ジャズの世界でも、減音音階や半音階が多用されるアドリブやアレンジは近代的な響きが得られる一方で、抽象的で難解なイメージになりやすい。

余談になるが、ジャズの演奏家のアドリブを採譜するのが時に困難であるのと同様、この曲も、高度なアドリブ的要素に満ちた難解な中盤部分に関しては、暗譜するのはたいへん困難で、それが当たり前のことなのだろう。

さらに、感傷的なメロディーによるテーマとの関連で見た場合、それは展開された、元のメロディーとは全く対比する別の世界へと発展したものと考えられる。人の人生においても、苦しい時期を乗り越えてこそ、やがて訪れる柔らかなひとときがより一層輝きを増すように、この楽曲においても、あの難解で近代的な響きに満ちた中盤の部分を通り過ぎることによって、感傷的で美しいテーマがより一層輝きを増すことになる。そして、それが存在しない場合とでは比較にならないくらい、より深みを増した豊かな世界が形成される。ショパン (Chopin) がそれを意図したのかどうかは別として。

そしてジャズ的なフレーズを織り込みつつ収束し、元のテーマへと還っていく。

あの難解な中盤の部分を含めた上で、この楽曲はトータルでやはり素晴らしいと今では思う。また、演奏する側の観点から見ても、繰り返し弾く度に新たな想像と発展を喚起する、本当に飽きない、優れた楽曲のひとつだと思う。そして、ショパン (Chopin) は優れたメロディーメーカーであると同時に、やはり、天才的な音楽家であり、芸術家なのだなと、つくづく思う。

冒頭で述べた友人とは久しく会っていないが、私が摩訶不思議黄昏色楽団 (Magical Twilight Orchestra) として音楽活動をしているのと同様、未だに彼も音楽活動をしていると聞く。いつか彼と再会し、マティーニでも飲みながら、この楽曲に関して、話してみたい。そして、彼が今どう感じているか訊いてみたい。

お薦めの曲『Twilight Room / 黄昏ゆく部屋 – Magical Twilight Orchestra / 摩訶不思議黄昏色楽団

Twilight Room / 黄昏ゆく部屋 - Magical Twilight Orchestra / 摩訶不思議黄昏色楽団


今、なぜかオリビアに夢中

先日ふと思い出してYouTubeでオリビア・ニュートン・ジョン (Olivia Newton John) を検索してみた。最初に現れたのが『そよ風の誘惑 / Have You Never Been Mellow』だった。そしてそこに現れたのが、70年代後半から80年代にかけての全盛期から30年以上経過した現在のオリビアだった。そのオリビアを一目見て私は現在のオリビアに夢中になった。

『そよ風の誘惑 / Have You Never Been Mellow』

声は少し枯れた印象を受けたものの、当時とはまた異なる魅力が随所に感じられ、また当時あまりにも完璧すぎて冷たくさえ感じられた外見にも歳月を経過しての暖かみと深みが感じられた。

そもそも私はリアルタイムのころ、それほどオリビアに夢中だったわけでもなんでもない。しかし、さらにいくつかの曲を聴いていくうちに私はますますオリビアに夢中になっていった。

『アイランド・イン・ザ・ストリーム / Island In The Stream』
オリビアが軽快に登場して会場の雰囲気に溶け込んでいく感じがとても素敵。

『サドゥンリー / Suddenly』

いくつかのバージョンをYouTubeで聴くことができるが、全て素晴らしい。恥ずかしながら、この名曲を歌っていた女性がオリビアだったことを今になって知った。

中でも次の間奏のときにダンスする瞬間は映画の中のワンシーンのようにも見え、感動的でさえある。

『Grease – You’re the one that I want』

映画『グリース』のころのオリビアはひと際素敵で、当時も「オリビア・ニュートン・ジョン (Olivia Newton John) って、こんなに綺麗だったっけ?」と目を疑ったほどだった。この映画でのオリビアによって、個人的には、彼女に対して、「完璧に美しい人」という印象を植えつけられてしまった。そして、この曲や次の『愛すれど悲し / Hopelessly Devoted to You』を改めて聴くと、外見の美しさだけでは決してなく、オリビアの声と歌唱力がひと際素晴らしいことに改めて気づかされる。

『愛すれど悲し / Hopelessly Devoted to You』

尚、この曲は1978年度のグラミー賞 最優秀女性ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞にノミネートされていたようだ。

そしてこのころすでにオリビアは30歳だったということを考えると、とても切ない気分になる。あまりにも勝手な想像に過ぎないが、女性としての下り坂に差し掛かりつつもアーティストとしての絶頂期を迎えていったあたりに、なぜか言葉で表現しようのない切ないものを感じてしまうのだ。とは言うものの、私はオリビアがアーティストとして衰退していくころにはその存在さえ忘れてしまっていたのだが。

そして30年以上の歳月を経過してWebでふいにオリビアと再開。何よりも驚かされたのが次の動画で、しかも、このライブはついこの間行われたものだという。さらに近日中にもライブが行われるという。

『Olivia Newton John – Festival de Viña del Mar 2017 #VIÑA2017』

いろいろと調べてみると彼女はその後、独自ブランドを立ち上げ、実業家としての道を歩んでいたという。いろいろな苦労もあったんだろうなって、これはもまた実に勝手な想像が働いてしまう。。また、一時期は鬱病とも戦っていたという。あのオリビアが?なぜ?よくわからないし、信じられない。

そんな自由気ままな想像や想いと共に、オリビア・ニュートン・ジョン (Olivia Newton John) は、今、私にとって、最もライブで観たい、そして聴きたいアーティストのひとりだ。

また日本にも来てくれないかなぁ。。


Bill Evans / You Must Belieave In Spring

iTunesで試聴して、最初の一音を聴いた瞬間に虜になり、全編が聴きたくてたまらなくなり、次の日にCD屋へ走った。最近時間があればこればかり聴いている。聴けば聴くほど心に沁み入ってくる感じ。

晩年のビル・エバンス (Bill Evans) の演奏はビル・エバンス臭さを残しながらも洗練された感じが印象的だ。アルバム全体を見ても、静かに始まって、盛大に終わるという感じがまた心地良い。

秋の夜長にぴったりの一枚。

ニューアルバム『Jazz Club Night (ジャズ・クラブ・ナイト) 』に関して

Jazz Club Night (ジャズ・クラブ・ナイト) CDジャケット

このアルバムは摩訶不思議黄昏色楽団 (Magical Twilight Orchestra) のこれまでに発表されたアルバムとは違い、最もポップではないアルバムということになるだろう。一言で言うと泥臭い、一般的に取っつきにくいアルパムだと思う。だから、このアルバムは一時期、発表することそのものをやめようかと考えたこともある。あるいは、このアルバムの次に発表される予定の極めてポップなアルバム『Lyin’ Eyes (偽りの瞳)』を完成させてから2枚同時にリリースしてお茶を濁そうか、とも考えた。そもそも、摩訶不思議黄昏色楽団 (Magical Twilight Orchestra) は知る人ぞ知るといった存在なので「何もそこまで深く考える必要はない」と言われればそれまでの話なのだが。

このアルバムを創り始めてから4年が経過した。これまでのアルバムもそうだったが、このアルバムもすぐに完成に近い形は出来上がっていた。さらに一応つけ加えておくと、頭で考えることは一切ないので、メロディーができるのは一瞬の出来事だ。それにも関わらず、発表までに多くの時間を要したのにはいくつかの理由があるのだが、簡単に言うと、その間に制作を中断せざるを得ないいくつかの大きな難題が降りかかってきた、ということになる。そして、公私共に波乱の時期を共に過ごしたアルバムだけに、まるで戦友のような愛おしさも感じている。

完成一歩手前の現段階で改めてこのアルバムを聴き返してみると、タイトルは『Jazz Club Night (ジャズ・クラブ・ナイト) 』であるにも関わらず、Jazzではない。冒頭ではポップではないと言ったにも関わらず、Jazzの観点からするとあまりにもポップすぎる。しかし、そもそも摩訶不思議黄昏色楽団 (Magical Twilight Orchestra) はJazzを囓っているというくらいにしか考えていないし、『Jazz Club Night (ジャズ・クラブ・ナイト) 』というタイトルのアルバムの中身がロックやポップであっても全く構わないと考えている。しかし、このアルバムのテーマは紛れもなくJazzなのだ。

摩訶不思議黄昏色楽団 (Magical Twilight Orchestra) のアルバムにはそれぞれに明確なコンセプトがあり、その発表順位に至るまで、個人的な意味合いも含めて、全て意味がある。だからこのアルバムもラインナップの中で外せない存在だった。そういったことからも、このアルバムは発表しないわけにはいかない。村上春樹風に言うと、このアルバムは「発表されたがっている」のだろう。いずれにしても、物を創る人間である以上、自らが生み出した作品は全て愛おしいし、例えそれがどんな代物であったとしても、出来の悪い子供ほど可愛がる母親と同じ思いだ。

このアルバムは評価されないかも知れない。しかし、近々リリースされるだろう。


いちばん好きなラウンド・ミッドナイト (‘Round Midnight)

私がこれまでに聴いた中で最も好きな『ラウンド・ミッドナイト (‘Round Midnight)』、それは間違いなくジョー・ジャクソン (Joe Jackson) の『ラウンド・ミッドナイト (‘Round Midnight)』だ。それはセロニアス・モンク (Thelonious Monk) のトリビュート・アルバム『That’s The Way I Feel Now – A Tribute to Thelonious Monk』に収められている。最初この演奏を聴いたとき、そのアレンジ、哀愁を帯びた即興のメロディー、研ぎ澄まされたピアノの音に惹きつけられた。そして、何度も何度も繰り返し聴いているうちに、もしかすると、これは即興じゃないかも知れないとも思ったが、仮に作曲であったとしても素晴らしい、と思った。そのハードボイルドな世界観がたまらない。

このアルバムには他に、ドナルド・フェイゲン (Donald Fagen) とスティーブ・カーン (Steve Khan) による『リフレクションズ (Reflections)』なども収められていて、この演奏に関してもまた別の機会にお話ししたいと思っているが、そもそもアルバム自体が素晴らしい。

ちなみにこのアルバムはセロニアス・モンク (Thelonious Monk) の死後2年後に発表されているが、晩年のモンクは躁鬱病に悩まされていたという。また、ジョー・ジャクソン (Joe Jackson) も近年鬱病に悩まされていたという。素晴らしい演奏や楽曲で我々を楽しませてくれる裏でアーティストたちが抱えている様々な悩み。アーティストである以前に彼らも同じ人間である以上、それは当たり前のことなのだとは思うが、同じくもの創りをする人間の端くれとして胸が痛む。


猫が踏んじゃったピアノと人間が弾くピアノ

猫が鍵盤を踏む音と人間が弾くピアノの音は違うかという問いかけに対して議論しているのをWebで見かけたことがある。両者が同じ、という人の根拠は物理的な意味合いからだが、ピアノを弾く人間からの観点で言うと、それらは明らかに別物だ。

ピアノには人それぞれ、猫それぞれのタッチがある。タッチが異なると音色も変わる。キース・ジャレット (Keith Jarrett) のタッチとオスカー・ピーターソン (Oscar Peterson) のタッチは異なる。また、ピアノでなくても、トゥーツ・シールマンス (Toots Thielemans) の吹くハーモニカとスティービー・ワンダー(Stevie Wonder) が吹くハーモニカでは音色が異なる。これらは同じピアノではないから、同じハーモニカではないから、録音されたときのマイクを始めとする環境が違うから、ではなく、アーティストの感性に起因するものだと思う。

最近になって改めて感じるのは、ピアノの音色は打弦距離やそもそもの腕力との関係もあるが、前後の音との関連でもずいぶん変わってくる、ということだ。前の音の強弱、タッチの長さによって、その音の共鳴と共に次の音の響きも様々な表情に変化する。さらに細かな話になると、その日の湿度、プレイヤーの体調、気分などによってもサウンドは様々に変化する。とは言うものの、楽器を演奏するときに本来理屈はいらないと思うので、あくまで、あえて言葉にすれば、ということなのだが。

人間が感性で弾くピアノの音と猫が踏んじゃうピアノの音は当然違うし、プレイヤーによっても音色は様々で、それがピアノに限らず、生の楽器の醍醐味なのだと思う。


なんて切ないメロディー 4 Only With You / 山下達郎

私はこれまでにその海を何度か訪れている。そこは岩の突堤があり、湾になっている。水は深いブルーで、人影はまばら、または全く誰もいないことさえある。私はそこでいつまでも海を見ながら遠い記憶を辿っていく。

やがて虚ろな意識から現実の世界に戻るとき、私はその風景が必ずどこかに存在するというどうしようもない錯覚に陥る。そしてそこに戻りたくてたまらない、いても立ってもいられない衝動に駆られる。

いつか見た風景。デジャ・ヴー (déjà vu) 。

飛び散る波しぶき、眩しすぎる夏の輝かしさの裏に潜むブルー。過ぎ去った夏の美しい思い出の断片を蘇らせてくれるようなメロディー。何度聴いても素敵な曲で、そして限りなく切ない。山下達郎の、映画『Big Wave』のためのオリジナルサウンドトラックアルバムの中の1曲。


なんて切ないメロディー 5 追憶の甘い日々 (Reminiscing) / リトル・リバー・バンド (Little River Band)

この曲を聴くと、長い間連れ添った夫婦が黄昏時の浜辺を歩いて行く情景がなぜか目に浮かぶ。そしてサビのコーラスの部分を聴くと、大阪北港ヨットハーバーの風景と絡んで、なぜかなんとも言えない切ない気分になる。

1978年発表のリトル・リバー・バンド (Little River Band) の名曲。

外出中の空いた時間にパン屋さんのレストスペースでここまで書いたとき、偶然この曲が流れてきた。BGM用にインストゥルメンタルで創られたものらしいが、完璧にコピーされていた。 ただ、切なくも何ともなかった。

声は楽器と言われるが、いろいろな楽曲を編曲していて、曲、メロディーごとに最も合う楽器や声質があると思うことがしばしばある。この曲もやはりグレン・ショロック (Glenn Shorrock) の渇いたヴォーカルが必要で、そのヴォーカルからサビの部分のコーラスへと移るあの感覚がなければ成り立たないということなのだろう。


青春の光と影

摩訶不思議黄昏色楽団の今後発表予定のタイトルの中に『青春の光と影』というアルバムがある。文字通り「青春」をテーマしているのだが、いわゆる一般的な青春時代を描きつつ、青春時代を通り過ぎてから訪れる熱い時代も同時に青春と捉え、イメージの中に盛り込んでいるつもりだった。それは個人的に、社会に出てからのいくつかの時期に、公私共にいろいろなことに熱中していた時代があり、それぞれの時期に「あのころ以上に今が青春時代だ」という熱い思いを感じていたからだ。そしてそこからやがて「生涯が青春時代なんだ」と考えるようになっていた。それはそれでいいのかも知れないのだが。

しかし、最近になって、旧友たちからの同窓会への誘いやいくつかの出来事が重なり、少しずつ過去の時間が掘り起こされていくに従って、それは何かが違うということに気づかされた。旧友たちの過去の写真、過去の風景と再会し、現在の写真と遭遇していくうちに、何とも言いようのない思いに捉われるようになっていった。そして、彼らの顔が見たくて、彼らに会いたくて会いたくて仕方がなくなっていった。それは例えて言えば、恋人のことを想うとき、あるいはそれ以上に切ないどうしようもない感情だった。そうして私は、当時感じたあのときめく気持ち、躍動感そして憂鬱、退屈も含め、やはりあのころが「青春時代だった」ということに改めて気づかされた。それは時間が過ぎた今も尚色褪せることはない。しかし、それはいちどきりのものでもある。その後に訪れた青春に似た時代とはやはり少し次元が違うと思った。それは思春期の心と体の成長ということとも関連があるのかも知れない。

アルバム『青春の光と影』のコンセプト、収録される予定の楽曲はこの後も変更されることはないのだが、今後は「青春」に纏わるさらに深い対峙の中で、創り上げられていくことになるだろう。


セガ (SEGA) のカーレースのゲームの音楽が好きだった

そのころ、私は会社に勤めていて、昼休みに昼食をとった後、喫茶店に行くか、またはゲームセンターでゲームに興じるかの2択で時間を潰していた。そしてよくゲームセンターに行ったのだが、私がプレイするゲームは決まっていて、それがセガ (SEGA) のカーレースのゲームだった。私はそのゲームが得意で、4つあるステージの最後までをクリアすることができたため、昼休みのある程度の時間を潰すのにはちょうど良かったのだ。

そして、その最後のステージをクリアするとゲームのエンディングの音楽が流れるのだが、その音楽が何とも心地良く、私はゲームが終わってからも、次に待っている人がいなければ、その音楽が終わるまで、そのサウンドに聴き入っていた。それは、会社から解放され、束の間の昼休みにほんの少しだけ得ることのできる癒しの時間だった。そして、そのメロディーを聴き終わると、私はゲームセンターを後にして、また足早に会社に戻っていく。そのころの私は会社に馴染むことができず、仕事には夢中になっていたものの、人間関係は思うようにいっていなかった。だから、余計にその音楽が心に響いていたのかもしれない。

やがて私はその会社を去ることになり、ゲームセンターにも行くことはなくなった。もともとゲームが好きだったわけではなく、そのゲームに熱中していた理由もどちらかというと車を運転するのが好きだったからなのだ。しかし、あのゲームのエンディングに流れていた音楽と風景のイメージはその後も私の頭の中に微かに残っていた。

そして、最近になってWebでこのゲームのことを調べてみると、思いの他、ファンが多いことがわかり、また、その音楽の作曲者まで知ることができた。

セガ (SEGA) の1986年に発売されたゲームで、アウトラン (OUT RUN) というのが正式名称らしい。音楽は川口博史という人が創っていて、日本のゲームミュージック界の著名な作曲家のひとりらしい。私が好きだった曲は『Last Wave』という曲だったということもわかった。

しかも、このセガ (SEGA) のゲームの音楽は、別バージョンでCDも発売されているという。なるほどな、と思った。私が気に入ったエンディングの曲だけでなく、ゲームをプレイしているときに流れる曲全てがフュージョン系の心地良い音楽だったのだ。ファンも多かったに違いない。実際、Webでも未だに話題になっているようだ。

このゲームは3Dゲームの走りらしいが、その後のよりリアルな3Dゲームよりもまだ平面的で、絵や色彩にもどこか温かいものを感じさせられた。そうそう、1980年代前半にザ・バグルズ (The Buggles) の『ラジオスターの悲劇 (Video Killed the Radio Star) 』という曲があって、テクノポップでありながらも聴いたときにどこか暖かさを感じさせられる、あの雰囲気を彷彿させるような。